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35. 歌わないバーテンダー 昼間保父(保育士)をやりながら夜はスナックで働いた。弟の恵二が大学進学 をしたから。家族全員で応援したんだ。私立の体育大学だから金がかかる。各 大会の競技に参加する為の遠征費も高いんだよね。 接客はもちろんだけど、ギターの弾き語りをしていたんだ。しばらくの間ね。 しばらく…。お客は、自分がカラオケで歌いたくて仕方ないんだよね。当然な んだけど僕のオリジナルの歌なんて邪魔なんだな。「兄ちゃん、まだ、歌うの か」って。修行不足の僕だったから『この野郎』って、ひねた気持ちで一杯に なってしまってね。弾き語りをやめたんだ。マスターが歌えって言った時だけ 歌おうってね。プロじゃなかったねぇ、あの頃の むたゆうじ。 仕事の途中「むた、聞いてこい」ってマスターが言う。僕は、10円玉をもら うと、タタタタタッと、1階のタバコ屋さんの赤電話で<あるところ>に電 話。急いで戻ると「マスター、阪神が2点リードです」すると、マスター「 チッ」と苦虫顔。何をやっていたのかは当然知っていたけどね。秘密だった。 12時近くになると、決まってマスターは「むた、後はたのんだぞっ!」って レジのお金を鷲掴みにして、どこかへ消えていくんだ。だから、僕はいつも 閉店まで。食器を洗い、ゴミをまとめ、使用済みのオシボリを袋に詰めて、 椅子を綺麗に並べなおし…。本当は12時までの約束で雇ってもらったはずだ ったのに。「むたちゃん、オシボリ!」「むたちゃん、ビール!」キャハハ ハって笑いながら僕に指示を出し、決まった時間になると「じゃあね」って 帰っていく。しかも、僕より自給が高い。そんな女性スタッフが羨ましくて 逆恨みしたこともあったよ。 一度、楽しく飲んでいたヤクザが突然、喧嘩を始めたことがあってね。チン ピラじゃなくヤクザ。マスターは急いでスタッフの女性を帰して、残ったの はマスターと二人。「今すぐ銀行を開けさせろ!」夜中だよ。なんとも無茶 で物騒な話が飛び交うんだ。マスターと僕はカウンターで、口を一文字にキ ッと結んだまま、背筋を伸ばし、やや会釈した角度で止まっている。マスタ ーがそっとつぶやく。「すまんな、むた」「いえっ」・・・怖かったよ。途 方もない空間の中にすっぽりと閉じ込められた気がした。無事生還できて、 ほんと良かった。 心優しいマスターだったんだけどね。そして随分、助けてもらった…。「よ し、むた、お前の好きな<ヨイトマケの唄>を歌え」「むた、たのむ、<防 人の詩>を歌ってくれ」マスターは涙を拭きながら聞いてくれたよ。そして 入店してくるお客の一人一人に僕のことを宣伝してくれたんだ。「むた、給 料は、我慢料だからな」って教えて下さったのもマスター。ただ、賭け事に 対してのブレーキが壊れていた・・・この一箇所が壊れていた。 とうとう給料を貰えなくなった。「すまん、来月まで待ってくれ」を信じて 3ヶ月が過ぎたころ、そのマスターは蒸発。貰えなくても、我慢しろってい うことか…。僕にとって高い授業料だった。 でも、会いたい。 あのマスターの笑顔に逢いたいなぁ。無性にね。
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